本会は茨城県石岡市若松町の伝統ある獅子舞を保存し、祭礼等の活動を通じて多くの人々に感動を与え、地域の活力創造に寄与することを目的としております。
毎年9月に執り行われる常陸國總社宮例大祭、通称石岡のお祭りに若松町獅子部として参加するほか、様々な活動を行っております。
SNS
若松町について
長法寺と馬場観音
茨城県石岡市の小字の若宮及び若松、かつての地名を『長法寺(長峰寺)』、のち宝永年間(1704-1711)に佳名をとって若松町と改名、昭和まで使用された。町名の由来となった長法寺は室町時代頃からあったが、明治3年(1870)の石岡大火で焼失。長法寺に安置されていたと伝えられる十一面観音像は馬頭観音石碑と共に石岡市若宮一丁目八に保存されている。石岡のお祭りの年番制度が始まった明治時代には『長法寺町』の表記となっていた。縁起の良い町名へと改名をした理由は、明確にそれを裏付ける一次資料を発見できなかったため、ここでは割愛する。
江戸期まで若松といえば、現在の若宮八幡宮から東耀寺の一画のみであり、北側は府中松平藩の武家屋敷が広がっていた。三叉路には柿岡街道と宇都宮街道の分岐点の道標となる『追分石(おいわけいし)』(googleストリートビュー)が現存している。
『府中雑記』には次のような記述がある。
「長峰寺(寛永年中若松町と改む)摩利支天観音堂、東の畑中に在り、御郡奉公井上源蔵殿、京の馬場へ移す。古跡には畑中に小塚あり。故に今京の馬場を摩利支天と覚えたる人あり。後故有て又龍光院に造立し、往古より龍光院支配也」
摩利支天本観音堂は奉行井上源三により観音堂は残し、すぐ近くの畑中に有った摩利支天は京の馬場(若宮4丁目1から府中中学校近辺)に移された。近代になってこの摩利支天は若宮八幡宮へ合祀。また、摩利支天は別に龍光院にも造立されたという。
十一面観音立像については有志による外部サイト『1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>』に詳細な記述がある。
ここ若松町は柿岡街道と宇都宮街道が合流する地点であり、馬頭観音石碑があるように馬の集積地になっていたという。下記引用は、小さい頃の思い出話として寄稿されたものである。
何度も目がさめて、暗いうちに起きた。お父もおっ母も起きていた。今日は始めて石岡さ買物に連れでってもらう日だと思うと嬉しくてなんねぇ。おらのお父は金指の馬車だ。だから毎日のように石岡さ行ぐ。在方から米俵、薪炭なんでも頼まれて積む。頼りや、伝言まで、たのまれる。帰りには、酒、醤油、ランプ油、日用品などを選ぶのが仕事だ。おっ母が三尺帯を出してくれた。正月のときしめた帯だ。(略)青空が広くなったと思ったら、もう石岡の長法寺口だ。でかい石の道標がある。おん出しの井戸で足を洗い、下駄をはいた。お父はあとからきた恋瀬の馬車と、立話しをしている。みんな石岡さ、くんだなぁと思った。やがて森の中にでかい煙突が見え、黒い煙をもくもくとはき出した。お父が、「あれが小口の製糸場だ」と言った。あんな高い煙突は、どうやって建てたんだっぺなあ、と思いながら見上げた。「きょろきょろしてねえでよく手さつかまってろよ」とおっ母が言った。村にいるいつものおっ母と違うような気がした。
中嶋啓次郎(1948)「旅 二題」 石岡郷土史研究会編(1948)『石岡郷土史』第六号 p.29-31 石岡郷土史研究会
近郷から石岡に向かうたくさんの馬車、そびえ立つ煙突と黒い煙(『小口組石岡製糸場』,現在の『石岡イベント広場』)、晴れ着を身にまとった村人の姿などを通して、当時の石岡、若松町を象徴的に表している。
また、有名な刀工長峰寺正俊(刀は国立博物館に所蔵されている)はこの地に住んでいたが、鎌倉へ移ったとされる。「寛永十三年丙子二月 日 奉納長峰寺」と刻まれているのは正俊の作である。
現在は新興住宅も増え、約1700世帯と市内では有数の世帯数の地域となっている。
常陸國総社宮例大祭では氏子会に加入し、出し物は山車と幌獅子を奉納している。一時期は幌獅子を2台奉納していた。また、「若松東」として同じく氏子会に1988年に正式に加入し、1985年に子供獅子を、1987年から獅子を奉納している地区の団体もある。
『相町(あいちょう)』という、相互扶助を目的とした制度では、中町と大砂町が若松町の相町に指定され、山車や獅子にお互いの町の提灯を飾り付けている。
二十三夜尊
若宮八幡宮へ向かう道の途中、街中にひっそりと二十三夜尊が佇んでいる。現在は切り株が残るのみであるが、樹齢五百年を越える大銀杏があった。昔の話に「話しコンピラ」と謳われ守木町金刀比羅神社と共に縁日に夜店が出て賑わったとされる。「三夜待ち」「三夜講」等の風習があり、これを信じると「小遣いに不自由しない」との説である。
現在は廃寺となり痕跡すらほぼ残されていない八幡寺、若宮山観音院、長法寺(いずれも若松町内)とは違い現存こそしているものの、人知れず市民からはその存在を忘れられつつある。
石岡は国府の置かれた歴史的背景があるが、度重なる戦乱や火事で姿形の残されている史跡は非常に少ない。廃寺が多いのも戦乱で住職が不足していたからと推察できる。
若松町の獅子
石岡の獅子は「幌獅子」と呼ばれ、大きな獅子頭に囃子衆が乗り込む移動式の小屋が付随。2輪のタイヤにブレーキも備え付けられている。現在使用されている小屋は平成元年(1989)頃、当時の若松町獅子部員によって作成したもの。寄木造りという工法でボルトをほとんど使用していないためか、縄を何重にも巻いて固定している。材質は桐やあら縄など。腕利きの指導者がいたことが想像できる。
上の写真の獅子頭は寄木造り、来栖保氏により平成13年(2001)年製作。重さは15kg。造形は宇津型と呼ばれ、眉の形が渦巻状になっている。
仲之内の約30kgを除き、他の町内は12~20kgの獅子頭が多い。
石岡市内の旧町内では、各地区の団体が獅子や山車を保有し、後述するお祭りに参加している。
若松町は年番の2006年に幌と獅子頭を一新。
現在、毎年9月の常陸國総社宮大祭(通称「石岡のお祭り」)ではこの獅子頭が使われている。
八幡太郎義家大獅子
若松町に縁のある源義家の名を冠する、ひときわ大きな獅子頭。神輿のように複数人で担ぎ、掛け声に合わせて持ち上げる。派手さや豪快さで評判のある若松町を象徴しているような獅子である。
常陸國総社宮例大祭では、2日目奉祝祭の幌獅子パレードで披露する。2007年奉納。
若松町の山車
山車は移動式屋台のことを指し、地域によってはダンジリ、屋台、山鉾とも。石岡の山車はいわゆる江戸型で、屋根がない2~3層構造。最上層には2m前後の人形が飾られる。土台より上は回転式となっており、回転しながらの踊りとお囃子が見られる。
山車の演目は主におかめ踊りの四丁目(しちょうめ)、ひょっとこ踊りの仁羽(にんば)、きつね踊りの新馬の3種。独特の軽快で底抜けに明るい硬軟入り交じったリズムが特徴。石岡ばやしは県指定無形民俗文化財。
若松町の山車人形は、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称される源義家。永保2年(1082)に奥州征討の折、若宮八幡宮に朝敵退散を祈願し、かぶら矢を奉納したと伝えられる。
山車及び山車人形共に2005年奉納。若松町の山車は障害物を避けるため、3層目と山車人形が上下する仕組みになっている。平成17年(2005)、㈲小松崎林業製作、総監督は高橋謙二氏。山車人形は㈱川崎人形が製作。